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小平市

museum/多摩武蔵野から行くミュージアムガイド
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「小平市平櫛田中彫刻美術館」

〒187-0045 
東京都小平市学園西町1-7-5
TEL: 042-341-0098

公式ホームページ

開館時間:10:00〜16:00
休館日:火、年末年始
入館料:一般 300円  小中学生150円

小平市平櫛田中彫刻美術館
小平市平櫛田中彫刻美術館
 
100歳を越えても現役彫刻家だった平櫛田中の美術館
 
「晩年を過ごした小平の邸宅、アトリエが美術館として公開」

西武多摩湖線一橋学園駅から歩いて10分と少し。玉川上水を目の前にした、閑静な住宅街に小平市平櫛田中(ひらくし・でんちゅう)彫刻美術館があります。いまなお彫刻界では、平櫛田中(以下田中)を師として仰ぐ彫刻家も多く、また、長生きにあやかろうとする美術ファンも、遠くから足を運びます。
 

彫刻家・平櫛田中(ひらくしでんちゅう)

平櫛田中(ひらくしでんちゅう)は、1872年(明治5年)に岡山県に生まれました。本名は田中倬太郎ですが、1882年(明治15年)に平櫛家に養子入りし改名しました。1893年(明治26年)、22歳で木彫を志し、大阪の人形師・中谷省古に弟子入り。1901年(明治31年)に日本美術協会美術展に「唱歌君ヶ代」を出品。1908年(明治41年)に日本彫刻会第1回展に「活入箭」を出品。この時東京藝大の基礎となる東京美術学校を創立した岡倉天心の推奨を受けた事がきっかけで、のちの平櫛の作品に大きな影響を及ぼすこととなりました。

また後年は東京藝大名誉教授として芸術界の教育にも力を入れ活躍しました。1962年(昭和37年)には文化勲章受章、そして1972年(昭和47年)小平市名誉市民に推戴。1979年(昭和54年)小平市自宅にて107歳で永眠。生涯を彫刻に捧げた日本の近代彫刻の歴史そのものの人でした。代表作は国立劇場にある「鏡獅子」や、「烏有先生(うゆうせんせい)」「転生」「五浦釣人(ごほちょうじん)」などがあります。

その高い人格から「六十、七十は鼻たれ小僧、男ざかりは、百から百から、わしもこれからこれから」「人間いたずらに多事、人生いたずらに年をとる、いまやらねばいつできる、 わしがやらねばたれがやる」など数々の名言も残しています。

 

 
故人を偲ぶ彫刻美術館は昭和59年に設置された
平櫛田中氏
 
なりたち

平櫛田中翁の終えんの館を保存し、一般公開するため、昭和59年10月に開館しました。

土地はずいぶんと前から持っていましたが、田中が家を建てたのは98歳のとき。病気だった娘のために、玉川上水を望むこの地を選んだと言います。交通の便は決してよいとは言いがたいですが、田中の教え子、近隣の美術大学といった美術関係者だけでなく、玉川上水を散策するその足で来館する方も多い、とか。

アトリエも兼ねていたため、庭には100歳のとき「20年後の制作のため」に購入した、巨大な彫刻用原木が置かれています。

生前、氏が愛用した身の回り品や展示作品、庭園を通して、平櫛田中芸術を味わっていただきたいと思います。


 
受付

入口に入ると、さっそく田中の彫刻があります。その近くには代表作鏡獅子などのポストカードが販売されています。

 
展示室

地上2階地下1階建ての展示室があります。
年に2〜4回の企画展が行われており、田中の彫刻作品だけでなく、書簡、使っていた道具、関係していた人々の作品展など、内容も多岐にわたります。
1階にある田中の代表作ともいえる「鏡獅子」、2階にある日本の美術界を築いた一人「岡倉天心」と、第二次世界大戦の戦火から京都を守ったといわれる「ウォーナー博士」の像はいつも見ることができます。

なお田中芸術のすべてを結集し、20年の歳月をかけて完成したのが生涯の大作「鏡獅子」。像高2メートルの彩色を施した鏡獅子は現在国立劇場正面ホールに展示されています。
 
 
 
最後まで手元においていた鏡獅子
大きな影響を受けた岡倉天心とウォーナー博士の像
 
平櫛田中作品の世界

平櫛田中が残した作品の数々

画像とコメントは小平市平櫛田中彫刻美術館インターネット美術館を参照いたしました。
 
 
鏡獅子 ( かがみじし )
木彫彩色 昭和40年 高 58.0cm
鏡獅子は歌舞伎舞踊「春興鏡獅子(しゅんきょうかがみじし)」の略称。正月の鏡開きの余興(よきょう)に手鏡を持って腰元が踊ると、その獅子の精にひかれて花道へ引っ込む。そして後段、能衣装に歌舞伎式隈取(くまど)りの顔で獅子が花道から出る、という趣向の前、後段緩急自在の変化をもった新歌舞伎十八番の一つである。九代目市川団十郎によって創案され、六代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)によって、絢爛(けんらん)たる出し物に完成された。

尋牛 ( じんぎゅう )
木彫 制作年不詳 高 47.5cm
自分の牛を探す老人が長い苦難の末にようやく見つけ、最後に乗って帰ってくるという中国宋代の禅籍『十牛図』中の「尋牛」をあらわしている。悟りの道を、牛を探す老人に例えたものだが、この作品の場合は、田中が理想とする彫刻家としての姿勢があらわれているものと思われる。

気楽坊 ( きらくぼう )
木彫 昭和36年 高 19.5cm
後水尾(ごみずのお)天皇(1596〜1680)は、徳川秀忠の娘と政略結婚させられたことに不満で、「世の中は 気楽に暮らせ何ごとも 思えば思う 思わねばこそ」という歌をつくり、気楽坊と名づけた指人形を作らせて、日々のやるせない気持ちを慰めたという。
 
 
郭子儀 ( かくしぎ )
木彫彩色 昭和34年 高 29.0cm
郭子儀は中国・唐代の武将で、汾陽(ふんよう)を治めたことから郭汾陽(かくふんよう)ともよばれている。子供や孫に恵まれたため、「子孫繁栄」や「長寿」の象徴的存在にもなっている。本作は子供たちの名前が書かれた札を手にし、目を細めて子供たちを見やる姿が描写されている。「はて、おまえは誰だったかな」というつぶやきが、この作品から聞こえてくるようだ。
東方朔 ( とうぼうさく )
木彫彩色 昭和49年 高 46.0cm
東方朔は、中国・漢時代の人で、機知とユーモアで武帝に愛されたが、時には皇帝にも直言したという。中国の故事には、この東方朔が、中国西方の昆崙山(こんろんさん)に棲む西王母(せいおうも)という仙女の桃を三つ盗み喰いしたので、長命だったというエピソードがある。
かがみ
木彫金彩 昭和31年 高 19.0cm
作品の共箱に「見悪しさに鬼も角を折る」と墨書がある。片方の角は失ってしまったのであろうか。鬼の頭上には右の角だけがアンバランスに残り、鬼はその外見の見苦しさに耐えかねて、鏡を見ながら残った角を折ろうと懸命である。角は鬼のシンボル。残った角まで抜いてしまえば、鬼の鬼たるゆえんは消滅してしまうが、本人はその滑稽(こっけい)さに気付いていない、というのが本作のテーマであろうか。
 
 
岡倉天心胸像 ( おかくらてんしんきょうぞう )
ブロンズ金箔 昭和6年 高 107.7cm
東京美術学校(現東京芸術大学)に設置した銅像の胸部。極力自らの記憶や印象にたよらず、親しい人から天心の人間や風貌(ふうぼう)の細部を聞いて正確を期したものである。 天心を尊敬していた田中は、生涯にわたって数多くの天心の像を制作している。
ウォーナー博士像 ( うぉーなーはかせぞう )
ブロンズ金箔 昭和45年 高 80.0cm
アメリカの東洋美術研究家。岡倉天心が部長を勤めたボストン美術館東洋部等に勤務。太平洋戦争の際に、京都、奈良を爆撃から救うために尽力した、いわば日本美術の恩人ともいえる人物である。
福は内 ( ふくはうち )
木彫 昭和42年 高 30.0cm
鬼が後方から豆を投げつけられ、頭を両手で抱えて逃げる姿。鬼をテーマにした他の作品にあるような、どこかユーモラスな雰囲気がこの作品にも感じられる。鬼を表しながら、作品名を「福は内」としたところもおもしろい。
 
 
良寛上人 ( りょうかんしょうにん )
木彫彩色 昭和43年 高 26.5cm
良寛は江戸後期の禅僧で、歌人としても知られる。家業を嫌って十八歳で出家し、曹洞宗光照寺の玄来和尚について大愚と号した。奇行が多く、逸話も多く残る。

田中は彩色や形態に変化をつけて良寛の像を数多く残し、このタイプのほかに颯爽(さっそう)と風を切って歩く〈良寛来(りょうかんらい)〉(華鴒(はなとり)美術館蔵)や〈良寛とざくろ〉(佐久市立近代美術館蔵)などがある。

 

薬師如来 ( やくしにょらい )
木彫金彩 昭和39年 高 124.0cm
薬師如来は、十二の誓願(せいがん)をたて、衆生(しゅじょう)の病苦を救う仏とされる。日本における薬師信仰は古く、七世紀後半頃から始められた。病を治してくれるという功徳(くどく)のため、多くの人々の信仰を集め、造像例も釈迦如来とともに最も多い。
玉錦 ( たまにしき )
ブロンズ 昭和7年 高 39.0cm
体は小さかったが猛稽古で横綱に昇進し、名横綱・双葉山の登場まで相撲界を盛り上げた。現役中に小部屋であった二所ノ関部屋を大きく発展させたが、昭和13年に巡業先で惜しくも死去した。

作品は、相撲博物館蔵の木彫「国技」と同じ石膏の原型から制作されたものである。お腹のたるみの感じや、力の漲(みなぎ)った両足の肉感の表現が見事で、立会い前の緊張感が伝わってくる。

 

 
 
雲林先生 ( うんりんせんせい )
木彫彩色 昭和25年 高 54.0cm
モデルは中国元代末の四大画家のひとり倪さん(げいさん)で、号を雲林といった。若くして老荘の思想にあこがれ、精神の芸術を主張、後年は禅の悟境に傾倒した。本像の顔は田中が尊敬していた岡倉天心(おかくらてんしん)の顔に似せて作られている。
新春 ( しんしゅん )
木彫彩色 昭和元年頃 高 19.0cm
当時田中が飼っていた仔犬をモデルにして作られたもので、薮柑子(やぶこうじ)を懸命に引っ張っている様子がいきいきと彫出されている。田中にとっては珍しく動物を主題とした作品である。大正15年と昭和2年に、田中は長女と長男を続けて亡くし、失意の底に明け暮れた時期だった。それだけに一層「新春」というタイトルが暗示するように、生まれて間もない仔犬や薮柑子といった「新しい生命」の胎動(たいどう)が田中の心を捉えたのではないだろうか。
釣隠 ( ちょういん )
木彫彩色 昭和47年 高 49.0cm
太公望(たいこうぼう)は中国、周の時代の賢人で呂尚(りょしょう)といった。周の文王、西伯が狩りに出る時、占いを立てたところ、王を補佐してくれる人に出会うという結果が出た。果たしてその通りになったので、おおいに喜び「先君太公から子を望むこと久し(前の太公の頃からずっと待っていた。)」と語ったという故事から名づけられた。よく釣りをしたことから釣師の代名詞にもなっている。

 

 
平櫛田中旧宅

この敷地には、田中が98歳から107歳で亡くなるまでの10年間を過ごした旧宅もあります。
寝室、居間、アトリエなどを今なお見ることができ、田中翁が慈しんだ庭には春に梅、もくれん、桃、ぼたん、夏にはあじさい、はなみずき、姫くちなし、秋はつわぶき、さざんかなど四季折々の花が咲き、訪れる人の目を和ませてくれます。
 
 
イベント

春と秋にはお茶会が行われます。
小平市内の大学生、お茶の先生などのお点前で、気軽にお茶を楽しむことが出来ます。
また夏休みには、市内在住の親子向けのイベント(絵画、紙粘土づくりなど)も。
 



-----------→探訪後記
取材に伺ったのが2月末、まさに梅の時期。一番驚いたのは、田中が100歳で買った大きな彫刻用原木。以前私が見たことがあった「鏡獅子」は人間原寸大の作品でしたが、それを作るためには、こんな大きな木が必要なのですね!しかも100歳越えても制作していたなんて、芸術家のパワーを実感できます。
     
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